【源氏物語を読む】
『新潮日本古典集成源次物語』若紫巻
p.197,l.11「君はここちもいとなやましきに、」〜p.201,l.8「おしたてたまひつ。」
若紫を引き取りたいという申し出に対して、僧都にすげなく断られてしまった光源氏は、読経が絶え絶えに聞こえてくる邸で物思いに沈みます。夜も更けた頃、光源氏は扇を鳴らして人を呼びます。この扇を鳴らす動作は、鳴らし方は不明ですが、人を呼ぶ合図として使われるそうです。呼ばれた女房は不審に思いますが、それに対して光源氏は法華経の一節を引いて話しかけます。これは、邸には仏道修行に励む尼君がいることから、それにお仕えする女房にも伝わる表現であることをわかった上で話していることが読み取れる箇所です。その後、「初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ」という歌を詠み、取り次ぐように申しつけますが、この「初草」という語も、前の場面で尼君と女房の歌のやりとりを踏まえています。直前に家の内情を知らなかったことによって僧都に希望を退けられてしまったことを踏まえて、今度は相手の内情をわかっているということを仄めかす表現を用いており、光源氏の策略を読み取れる場面でした。
歌を受け取った尼君は、光源氏の大胆さに驚きつつ、若紫の幼さや「若草」をどのようにして聞いたのかなどあれこれと思い巡らします。そして「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなむ」と詠み、光源氏が詠んだ歌の下の句だけを拾い、恋に関わる部分を退けるのでした。
光源氏と尼君は直接話すことになりますが、尼君が「おとなおとなしう、はずかしげなる」様子であることに気後れして、なかなか本題を話すことができません。これは前の場面で僧都の様子に気が引けていたところとも重なってきます。相手の立派さと、それに気まずさを覚える光源氏の若さや、無理なことを言っているという光源氏の自覚を読み取ることができる部分で、後の巻の光源氏と比べると新鮮さを感じました。光源氏は若紫を引き取りたい旨を尼君に伝えますが、その際に、光源氏は自身の身の上を語ります。身の上を引き合いに出したのは、説得の理由の一つではあるのですが、肉親の死が少なからず光源氏の心にあるということがわかる描写でもあると思いました。また、光源氏と若紫の身の上を比べてみると、①祖父大納言と祖母北の方(尼君)の娘が②皇族の父(帝/先帝の子)と結婚するも③父親の北の方の影響で亡くなり④祖母に育てられる、のように合致し、二人を同じ身の上に設定するという作者の考えもわかる場面でした。
先の僧都との交渉とは色々と表現を変えてみるものの、結局は真面目に取り合ってもらえないところに僧都もやってきてしましい、話が終わってしまうのでした。
今回は、光源氏が前の場面での失敗を踏まえ、話の切り出し方や説得の理由を変えてみる場面でした。あれこれと工夫したのに結局交渉が失敗に終わってしまったところは面白く感じました。また、なぜそのそのような表現をしているのかということを考えてみると、本文には書かれていない登場人物の思惑や心情が立ち上がり、物語をより深く理解できることを実感する回でもありました。
文責:髙野
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