【源氏物語を読む】
『新潮古典集成源氏物語』夕顔巻
p166.l1「まことに」~p167.14「しばしはおぼえたまふ。」
祈祷師などは何とか光源氏の病を退けようと祭り、祓、加持祈祷を懸命に行いますが、病状は悪くなる一方です。その噂は宮中にとどまらず世間にも広まっていきます。「天の下の人の騒ぎなり」とあることから広い範囲に噂が流布していたことが伺えます。
ところで、主人を亡くした右近は光源氏の自邸へ奉公することが許されていました。右近は喪に服す意を示す深い黒の衣を身にまとい、見目はけして美しくありませんでしたが、特に見苦しい欠点などない若者でした。ほどなくして二条の院に馴染んでいったそうです。
光源氏は右近を呼び寄せます。
「不思議なほどに短く終わった夕顔との宿縁に引かれ、私もこの世に在り続けることはできないだろう。長年頼りにしていた主人が失せて心細く思っていたのを、私の命があれば何でも面倒を見てやろうと考えていた。けれども私もまたあの人(=夕顔)と添っていくであろうことが、残念なことだ」
と静かにおっしゃいました。右近は夕顔が亡くなったことはもうどうしようもないが、光源氏も本当に大変だと胸の内に思います。
内裏からは使者が「雨の脚よりもけにしげし」とあるようにひっきりなしに訪れ、二条の院の人々は「足を空にて」とあるように余りの大変さで心が落ち着かない様子です。
左大臣方のお世話もあり、光源氏はその後しばらくして徐々に快方に向かいました。とはいえ病が癒えた日と穢れに触れることを慎む期限の明ける日が丁度重なったため、内裏の宿直所へ向かいました。左大臣方はよくよく物忌みをするようにと光源氏に伝えます。今回のシーンは光源氏が宿直所で「われにもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに(ぼんやりとして、別世界に生き返ったかのように)」と感じたところで終了です。
今回は「雨の脚よりもけにしげし」「足を空にて思ひ惑ふ」など、コミカルな言い回しがみられたのが印象的でした。今までが重ための展開だったからでしょうか、少し場が軽くなるような雰囲気を感じます。また以前のシーンでは光源氏が弱みを見せるのは惟光の前だけだという場面がとても多かったのですが、このシーンでは右近にも弱音を少しだけはいています。一連の事件を共にしたことで、光源氏と右近の間で築かれた信頼関係がかいま見えました。
最後に光源氏が宿直所で感じた一文の「あらぬ世」という言葉の余韻を美しく思いました。『集成』は「別世界」と現代語訳をあてていましたが、私は「夕顔のいない世」であるというふうに受け止めました。葬儀や物忌み、重い病も夕顔ありきのもので、その期間さえも快復した今となっては過去の話となってしまったことで光源氏は「あらぬ世」と感じたのではないかと想像しました。もちろん根拠がない私自身の想像に過ぎないのですが、言葉一つとっても色々な想像が膨らむところに古典文学を鑑賞する楽しさを改めて感じました。
(文責:斉藤)
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