【翻刻】
大正大学蔵『源氏物語』桐壺巻
33丁裏
【源氏物語を読む】
『新潮古典集成源氏物語』夕顔巻
P.143,L.1「明けがたも」~P.145,L.1「をかしくおぼす。」
今回読んだ場面は仏教に関する用語が多く出てきたことに加え、光源氏が夕顔を某院から連れ出す様子が描かれていました。
夜明けも近くになり、ひどく老いた声で仏像に額をつけて礼拝する声が聞こえています。その様子をしみじみと哀れに思われた光源氏は何を欲張って自分のご利益を祈っているのかと聞き、それは「南無当来導師」を拝んでいる様子です。光源氏は歌を詠み、長生殿で誓い合った昔の玄宗皇帝と楊貴妃の例は不吉なので、比翼の鳥という願いとは趣を変えて弥勒菩薩出現の未来までもと、今から約束しました。遠い未来までの約束は大げさなことです。夕顔は返歌を送り、心細い様子です。行く先も分からず出かけることを夕顔はためらっていますが、光源氏が何かと説得しているうちに夜はだんだんと明けていきます。急いで夕顔を車に乗せ、なにがしの院(河原院)に到着します。夕顔の袖はひどく濡れ、光源氏はこのようなことは初めてで気苦労なことであると感じ、歌を詠みます。夕顔は恥ずかしそうに、心細い心情を歌に詠みました。
「南無当来導師」とは「弥勒菩薩」のことです。弥勒菩薩出現は遠い未来の表現ですが、どのくらい先の未来なのでしょうか?ここでの未来は「56億7千万年」を示しています。当時から現代までを考えてもまだ千年くらいしか経過していません(笑)。光源氏の遠い未来は億単位であることに格の違いを感じると同時に、壮大なスケールは面白く驚きを隠せませんでした。また、遠い未来の約束について「ゆくさきの御頼め、いとこちたし。」と作者が「大げさだね」と感想を述べているので、光源氏の歌を緩和しているようにも思えました。光源氏の歌は未来のことを詠んでいましたが、夕顔の返歌は前世のことを詠んでいるため軽い受け流しは美しい対応力だなと感じました。
夕顔を連れ出す場面は明け方の出来事であり、異例のことです。一般的には男性が明け方に帰ったり、人が別れる時間も明け方であったりします。そのため、夕顔は明け方に行く先分からず出かけることは大変不安だったのではないかと考えられます。夕顔の気味悪そうな様子も文章から読み取ることができますが、光源氏が住居のせいにしているところは女性に慣れているにもかかわらず女性の心情を読み取れない人だなと感じました。また、話が嚙み合っていない描写からも夕顔を理解できていないことが強調されているようにも思えます。やはり、光源氏が女性のことを分かっているように思えて分かっていない様子は面白く、年齢を重ねることで女心を理解できるのかを今後注目していきたいです。
文責:森迫
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